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in correspondence

with dogs——ぼくたちは森を何度でも訪れる。都市から、海の底から、杣道を通って。

09 Apr 2019

 真っ白な(真っ黒な(極彩色の))テキストエディタを前にして、ぼくたちはひとまず了解している——サヒヤンデ劇場に4匹の犬がいた。その扇型の舞台は深い森のただなかへ広がり、そのまま聖なる山・マリシュワラのほうへと続いていた。


 まずは、もう一度あの晩のことを話そう。10年に1度の嵐だった。風雨に揉まれ、森は激しく身をくねらせていた——その蠕動は、ぼくたちを異物として排除するものだったとぼくたちは理解した(だからぼくたちはあっさりと帰路に着き、その代わりにこうやってテキストエディタを介して繰り返しここを再訪している)。4日間の滞在のなかでぼくたちが耳をかたむけた森の声のうち、それが最もはっきりと理解可能なものだった(あの犬たちはぼくたちよりも少しばかり森に近い存在だったから、もうちょっと上手に森と駆け引きをしながら、あの夜をうまくやり過ごすことができたのかもしれない。けれどもぼくたちは嵐の中でどうしようもない人間性失語症に陥ってしまったために、手っ取り早い人智、と呼ぶしかない何かを尽くして森の諸力に抗することを試み、格好わるいやり方で身を守ることしかできなかった)。

 ちょうどその夜は、劇場を、森を、その土地を去る前の晩だったから、ぼくたちは劇場の客席でちいさなパーティーをやっていた。雨が降り出すと電力の供給が止まってしまうので、いくつかのランタンの火だけが頼りだった。ゆらゆらとした灯りに照らされたテーブルに、数種のカレーとドーサ、生姜の効いたお菓子、ぼくたちが持ち込んだ日本酒。とめどなくつむがれるおしゃべりの声。薄暗いところに座った誰かが歌をうたい始めて、それはまたたくまに唱和になった(あれはなんの歌だったっけ、クストリッツァかタルコフスキーの映画で歌われていた歌……)。手拍子がそれに重なった。はにかんだ人影が立ち上がり、でたらめなステップを踏み始めた。ふざけたような身のこなしに、ふとだれもが気を取られる——そのとき、出し抜けにおおきな雷が降って、あたりの空気がまっぷたつに裂けてしまった。一瞬の沈黙のあと、歌声がにわかに高くなり、そしてすべての影がたまりかねたようにダンスへとなだれ込んで行ったのをよく覚えている。(さっきもだれかが言ったけど)劇場の壁はなかったから、否応なく雨は舞台へと降り注ぎ、ぼくたちのささやかな言葉の場を浸潤した(だからこそぼくたちはいっそう高らかに歌ってしまったのだろう)。雨がやんだ一瞬の隙に、ぼくたちは宿へと歩いて帰った。信じられないことに、掌を返したように燦然とかがやく星空が雲間から覗いていた。けれども足もとの道はひどくぬかるみ、どろどろの水たまりに誰かが靴を奪われていた。

 土砂に埋もれた道路が復旧するやいなや、ぼくたちはすぐさま空港のほうへと逃げ去った。


 加速する世界の理念型があるとすれば、巨大な国際空港がそれにもっとも近いのだろう。脱臭され、脱色されたあとに、ほんの気持ち程度場所性を帯びさせられた空間(そうだな、たとえば羽田の日本橋、浦東のパンダ、バンクーバーのトーテムポール、それから……)。そんな非―場所からはどこへだって出かけることができるし、どこからもそこへたどり着くことができる。国家と国家のはざま(免税店はどこにもない花の香りに満ちている)、空と陸のはざまにあって(離陸のときのあのものすごい反作用)、utopiaにもっとも近いatopia、浅い眠りのなかに見るやわらかい夢。地上では短気なあのひとも、コスモポリタン風のほほえみをまとって背筋を伸ばす(だからあの日の機内でわめきちらす奴らを、ぼくたちはどきどきしながら見つめていた。私はあなたとは立場が違うんです、弁護士を呼びます、あなたを訴えますよ! それは明晰で慇懃なビジネス・ジャパニーズからはじまったのだが、次第にぼくたちに馴染みのない、荒々しく発される言語のほうへと転がり込んだ。客室乗務員も乗客の多くも二か国語話者であるらしく、もつれた言語が熱い応酬に割って入った。ぼくたちにはなにがなんだか分からなかった。まっさらの空に間違って浮かんでしまったちいさな地上)。


 ぼくたちは帰ってきた。慣れ親しんだ世界へ。痩せこけた犬のうろつかない街へ。ぼくたちがじっと黙り込んでいるあいだに、つるつるのカウンターでアイスクリームを食べているあいだに、この身体がふかぶかと纏っていた森の気配はすぐさま薄れていった。もう一度森へと向かわなければいけない。でもどうやって?

 ところで、ぼくたちはひとつのクールな断定を知っている。「つまり、記述をはじめることは、ふたたび別の旅を始めることだった。旅がかんたんに退廃の罠に捉えられるように、記述も容易に堕落する。それは一瞬ごとの選択だが、いつでも卑俗さの水面にすれすれに、波をかぶりながら飛行することになるだろう。それでもある日、なんの準備もできないままあわただしく旅行に出発したように、そっともうひとつの旅に突入することもできるはずだ。」(『コロンブスの犬』)

 でも、ひとつひとつと数えることができるような旅が存在するだろうか? 確かにぼくたちは出かけて帰ってくる。ひとつのピリオドを打った上でまた出かけていく。それは果たして別の旅なのだろうか? ぼくたちは旅の途中で多からず少なからずなんらかの変身を経験する。<わたし>は土地の食物によってその組成を変えるし、言葉だってそうだ。(どうでもいいんだけど、ぼくたちはあの森で過ごした日々のあいだ、なぜだか関西弁を話していたよね、これまでの人生のなかで、関西に暮らしていたことなど一度だってないというのに! 異質な暮らしのなかではぼくたちの身体は言葉をねじれさせるし、逆もまた然り。欧州の孤高の島国で暮らしていたあのころ、ぼくたちは怖がりの言語野をどうにかこじ開けて、拙い英語にむりやり明け渡していた。すると日々の認知がずるずると遅延してふやけていくので、自分のかたちをどうにか守るため、ハイド・パークでのランニング(!)なんかにいそしむ羽目にもなったんだっけ。筋肉の塑形。そうやって形作った身体はやっぱりすこし窮屈で、結局あまり続かなかったんだけど)。

 組み変わってしまった身体はゆっくりと元に戻っていくけれど、それにしたっていくつかの爪痕のようなものが残る。「旅は終わった」と言うことなんてできやしない。旅は続いている。確かにぼくたちは帰ってきた。しかし、ぼくたちはいまだなお流れの中にいる。旅の途中に暮らしている。ぼくたちは旅について書くことを始める。それはあたらしい旅の始まりではない。ぼくたちはこのようにテキスト・エディタに向かいあい(ごわごわとした糸でわたし・たちの記憶を荒っぽく、tentativeに縫い合わせながら)、ずっと前から始まっていた旅をただ継続しているだけだ。だからぼくたちは、変身にともなう鈍い痛みをあえて反芻し、引き攣れる傷のかたちをぐったりとなぞり、なぞり続けることで次なる変身へと至る。そのような記述を通じて、ぼくたちはいつか、森と街とのあいだをどうにか流浪するぼろぼろの犬になれるだろうか。


 ぼくたちは森を何度でも訪れる。都市から、海の底から、杣道を通って。再訪にはさまざまなやりかたがあるけれど、いかなる再訪もじつは過去の訪問の反復ではない(その証拠に、ぼくたちは同じ場所を訪れるごとにあたらしい懐かしさを発見しつづけている)。ある土地をすでに知っているという状態は、決してぼくたちの現在地に保たれることはない。飛行機や新幹線に乗っているあいだ、あるいはテキストエディタの起動を待つあいだにあのときのぼくたちは必ずどこかで振り落とされてしまうし、しかも(と言って問題ないはずだ)ぼくたちはすでにその土地の別様の景色を見知っているのだから、それゆえに土地はかならず見知らぬものとして立ち現れるだろう。頭のなかにすでに頼れる地図があると信じることは、だからある種のまずしさに帰結する。うっそうとした樹々を搔き分けるたび、親しくて遠い月面をゆくような慎重さで歩まねばならない。


 ぼくたちは森をほとんど毎晩訪れているけれど、それでも森の言葉はどこまでも遠い。もちろん、ぼくたちはサヒヤンデ劇場で荘重なダイアログを朗々と歌い上げていたわけではなかった。晴れた午後にはその舞台のひだまりは森との境界にぼくたちを招き入れてくれたから、そこでぼくたちはぼくたちなりの方法で感覚を研ぎ澄まし、透明な森の記号をからだにとらえようと試みていた。舞台の上に言葉はなかった。無言。沈黙劇。遅延し緊張した時間が流れ、ぎりぎりのところで均衡を保つ身体が、触れ、崩れ、爆発する。あるいは。そこに言葉はあった。互いに意味をなすことのない言葉。閉じられた言葉。中途半端なプライヴェート・ランゲージが行き交う。あなたはいま何と言ったのか。ぼくの吐く日本語はもはやにほんごではない。あなたの瞳にぼくは 森を見つける。シカール。それがきみの名だった。シカール。きみの言葉をぼくは聞き取ることができなかった。シカール。ぼくはきみの名をただしく覚えていない。

 日本語の話をしましょう。人間の日本語は犬に通用しないから、犬と人間のあいだに日本語での会話は成立しません。ですから、犬と触れ合うとき、あなたは犬の示す仕草を注意深く観察する必要があります。その毛並、その瞳、その揺れる尾、そのひとつひとつの仕草にあなたはイミを読み取ることができます。しかし、あなたは日本語でそのイミを表現することはできません。犬の前で漏らす日本語はすべて私語なのです。ですから、犬と触れ合うとき、あなたは新しい言語を発明する必要があります。そこのあなた、授業中に喋らないでください。私語は禁止です。そう、あなたは新しい言語を発明しなければなりません。しかし、それは、私語であってはならないのです。あなたが発明する新しい言語は、犬とともに作り上げられなければなりません。日本語とも、犬の仕草とも異なる、二者のための言語が必要なのです(ぼくたちは悲しい気持ちになる。なんといってもファンタジーはぼくたちの大好物なのだ。「犬猫は架空のことを話さない。それを踏まえて灯るコンビニ(『光と私語』)」——しかしはっきりさせておかなくてはいけない。言葉のおかげで嘘が言える、という理解はある前提のもとでは正しいが、その前提はフェアではない。むしろ嘘が言える言葉のほうが亜種であり、しかも亜種の言葉に支えられた嘘なんかなくたって、ぼくたちは騙し合うこと、騙りあうことができてしまう)。

 シカール。舞台の上でぼくはきみの瞳を恐れた。そのとき、ぼくたちの触れ合う可能性は閉ざされてしまった。空港で交わした抱擁の居心地の悪さのことを今でも覚えている((覚えられない名前。あるいは、もはや正しく把捉することもかなわない名前。真夏の水際で彼女は言った。ハグをするとき日本語でぎゅーって言うでしょ。そんな風に呼んで。その音がたぶんいちばん似ているから(でもあの場所に満ちる歌のような響音と日本語の声はあまりに異質であったので、もちろんそれは最善の類似でしかなかった)。あるいは曇り空の木曜日、訛りのつよい講義のあとで交わした会話。ヴィラーク、って言うんだけど、難しいよね。代わりにフラワーって呼んで、意味はおんなじだから。でも、とぼくたちは考える。固有名詞の意味を考えることなんて、あまりに筋が通らないんじゃないだろうか? それに、ひとたび一般名詞だと思ってしまったあとの語を名前として再利用するのは、珍しい名前をおぼえることよりもなぜだかずっと困難だった。どうしてリリーやローズのことは名前だと思っているのに、フラワーだとぎくしゃくしてしまうんだろう(こんな風に、相手の名前を正しく呼べないときの気まずさをぼくたちはよく覚えている。しかし呼ばれる側から考えたとき、それは本当に深刻なことだったのだろうか。日本語の名を持つひとであれば、その漢字表記が異なるいくつかの発音を表しうることがよくあるために、自分が正しいとみなしている読みとは別の呼び方に対してあかるく応えるひとも多いだろう(もちろんそれは不正確だと言って苦い顔をするひともいるけれど。ところで日本の戸籍には漢字の発音は登録されないから、テクニカルにはどんな発音で名乗ることも可能だって知ってた?(それは知らなかったな。たとえば「旧姓」をハックすることができるかもしれない。)。それにぼくたちはいまや日々いくつものニックネームやハンドルネームを平気で乱用しているし、そんなふうに名前を軽薄にとっかえひっかえしながらペルソナをずらしていくことがじつに解放的だと分かっている)。)。三重の括弧で律儀に折り畳まれた会話は明確に単位を規定するね。階層構造を成すぼくたちに巧妙に組み込まれるぼく-たち)。ある時点で、確か帰国してからずいぶん経ったあとだと思うけど、ぼくたちはシカールの(びっくりするほど陽気な!)インスタグラム・アカウントを教わって、彼はぼくたちのぼろぼろの語りからある意味では解放されたかのように見えた。でも、だからといってあのときの恐れや気まずさが遡求的に無効になるなんてことはもちろんないし、IDときっちり紐付けられたあの真四角のイメージの中で彼は一層遠くなっていく。

 結局のところ固有名とは、呪いとはらからの祝福であるか、貧しい作者性を召喚するための仮留めのアドレスであるしかない。名のエコノミーは端々にリンク切れを起こしながらも十分に機能している。嘘が言えるものであれ嘘を語りえないものであれ、言葉はぼくたちを世界からとおざける。現象学者くずれのナイーブな省察も、ここでは許されるだろう。そして言葉の拒否は間違いなく存在の神秘化であり、あらゆる理解と解釈を退ける身振りである。神は死んだのではなかったか? ぼくたちは相変わらず種々のものを信じ、小さな祈りをほうぼうに捧げている。

 どうしようもなく名へと向かいゆく祈り。ぼくたちはきらきらひかる夜空を幻視しながら、口のなかでなにかをもごもごとつぶやきながら、つめたい丘陵を転がり落ちていく。固有名を信じることは、愛することにとても似ている。私的に守り抜くつもりの愛が結局は(リンク切れした)関係性へ取り込まれていくことを知りながら、それでもぼくたちは愛さずにはおられない。抵抗はいつもむなしい。そんなつもりではなかった、そんなつもりでは——サヒヤンデ劇場のひだまりで、(瞳の代わりに)あのほそい指先がひかりに浸潤されるのをもっとちゃんと見ておくべきだった。(ねえ、ぼくたちはいまこのように「ぼくたち」になることの実験をしているけれど、ぼくたちは「わたし」を超え出ることを望むのではない。「わたし」を超え出て、もはや固有名など無効であるような星空へ駆け上がりたいわけではない。むしろ固有名すら(頼りない)頼みの綱になってしまうような「ぼくたち」として、ついに居直ることを試みているだけだ)。「世界が今より善く、豊かに、美しく行為することは何より大切なことである。しかしそのはるか手前で、自らの存在に歯ぎしりし、苦しみ、どうしても前に進めなくなる個体がどのような世界にも存在してしまう。そうした個体には世界が変わるのを待つ余裕すらない。みずから変わってみるしかない。個体の変容をロマン主義の夢に封じ込めてはいけない理由がここにある」(『壊れながら立ち上がり続ける』)——ぼくたちは、)ぼくたちはせめて(何度となく現れるこの空港で、ぎこちなく両腕を伸ばし)その名をそれらしく繰り返す。シカール。このような感じであったはずの名前。かつての、ぼくたちが発話した、たどたどしい喃語のように。シカール。


 こうしてぼくたちは語り始める。語ることは騙ることであり、また寄り合いにカタル=参加することでもあった。幽霊のささやき声。語ることの始まりには複数性があり(その考古学の臨界を思うときとんでもない歓びに満たされてしまうのだ)、ぼくたちは体まるごとを豊かなシグナルにゆだねながらその複数的発話の渦中になだれ込む。すべての感官を清澄にして、饒舌な、あまりに饒舌な失語症を振りほどく。流浪するぼろぼろの犬の装いで、明くる日にもまた、


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